読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

もっと遠くへ

山が好き。走るのが好き。さぁ、果てしない旅に出よう!

Pain is inevitable. Suffering is optional.

 これは、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)の中の一節だ。自分なりの解釈は「痛みは避けられないが、苦痛は選択可能」ということだ。このことについて裸足ランを通じて思うことを書いてみた。
  11月22日につくばマラソンを裸足で走った。
f:id:YSTiseki:20151124200353j:image   f:id:YSTiseki:20151124200411j:image

今年の東京マラソンに続き2回目の裸足でのフルマラソン挑戦だ。東京マラソンはFUN RUN気分で写真を撮ったり、エイドで立ち止まって食べたり飲んだり、のんびり5時間掛けて完走したが、今回のつくばはサブ4を目標に真剣に走った。結果、3時間55分10秒で完走し目標を達成した。
f:id:YSTiseki:20151124200021j:image

ワラーチでの自己ベストが3時間32分なので4時間切りはペースとしては問題無い。足裏に傷がつかなければ達成可能と思ってサブ4を目標とした。実際に走ってみれば、つくばの路面が全体的に滑らかだったということもあるが、足裏は無傷だった。
f:id:YSTiseki:20151124200051j:image

足裏のことばかり気にして、いつも気にしてるペース配分とか補給を全く気にせず走ったもんで、30km過ぎてペースが落ちたり(と言うのも前半の路面が良かったので時間を稼ごうとハイペースで走ったので)、脚が攣ったり(裸足なら攣らないかななどと勝手に思い込んで塩分補給もせず、水分も糖質も無計画)してペースガタ落ち。サブ4は諦め掛けたけど、そこはウルトラマラソンの経験もあって完走は諦めないつもりで走ってたら復活!最後5kmくらいは再びペースを取り戻してギリギリのところでサブ4達成。結構なマイ・ドラマがありました。
  2回目の裸足フルであらためて感じたこと。裸足で走ってるとたくさんのランナーが声を掛けてくれる。「凄いですね」「痛くないですか?」「怪我しないように」「尊敬します」「裸足頑張れ」とか。その度に手を上げて「頑張ります」「大丈夫ですよ」とか返事してると痛くても気分が良い。「痛い」けど「苦痛」ではない。これは裸足ランの楽しみの一つだ。
 さて、前置きはこれくらいにして本題へ移る。「痛み」とは身体への「入力信号」(刺激)だ。裸足で走ってると足裏から路面状態が圧力信号に変換されて入力される。脳がそれを「痛み」として感じ反応する。これは人間の本能に属する機能であり万人に共通する。例えば針のように尖った物を踏めば局所的で急速な圧力変化に「あ痛っ!」と即座に足を引っ込めるだろうし、少しザラザラしてる程度なら痛くもないので身体も特に反応しないだろう。針の筵(むしろ)を歩くなんてのは拷問の一つで極度の「苦痛」を強いるものだ。そう、反応には、身体の反応と心の反応があるのだ。
 初めて裸足で走るとアスファルトでさえも痛くて我慢できず「こんなんで走れる筈ないわ」と思う。つまり「苦痛」に耐えられない。ところが3〜4日(個人差はあるかもしれない)続けていると、なんだか「痛み」に慣れてくるせいか鈍感になって「苦痛」ではなくなる。きっと「この程度の痛みは命に別状はない」と判断して反応回路を組み替えてしまうのではないかと思う。「痛み」という入力信号は同じでも脳の反応は異なるのだ。
現代はシューズなるもののおかげで足裏に刺激を受けることが殆ど無いもんだから脳が過剰反応を起こしてブレーキを掛けてしまう。脳こそが自分だなんて考えないで身体を信じてやれば、やがて脳も気づいてブレーキを解除する。つまりこれが「苦痛」は選択可能であるということの自分なりの解釈だ。
  文明の力に依存せざるを得ない時代だけど、時には自分のできる範囲で文明の力を脱ぎ去って原始の人間の感覚を取り戻すということは、これから先の不安定な時代にあってとても大切なことだと思う。本当の強さは身体の外ではなく身体の内側にある。
身体の復権。
GO WILD!
ということでオチがついたのでこれで終わりにします。